香昭の父 高良 一は、那覇市市議会歴六期17年、
戦後事業のパイオニアとして活躍し
沖縄「国際通り」生みの親として知られております。
沖縄の多くの方々に愛された父が、
生前に手掛けた事業等を琉球新報で記事にして頂いております。
抜粋にてご紹介させて頂きます。
「元那覇市議会議長 故 高良一氏
戦後事業のパイオニア
国際通り生みの親
「ビンさん」で親しまれていた高良一さんがさる六日亡くなった。八十六歳だっ
た。那覇市議会歴六期十七年、退陣するまで三期十二年を名物議長で鳴 らし
た。 その政治歴もさることながら高良さんを語るにはその旺盛な事業欲、豊富
なアイデアで戦後沖縄における各種事業のパイオニアだったことをまず強調 し
なけれ ばならない。アイデアが泉のように湧き出てくる人だった。手がけた
仕事は終戦直後の何もない時代に大衆に映画という娯楽を与えたアーニーパイ
ル国際劇 場をはじめ金融、ホテル建設、リゾート開発、モノレール、新聞に及
ぶなど両手の指では数えきれない。高良さんの人物像を追ってみた。
終戦直後、うるま新報(琉球新報の前身)の那覇支局長だったころ、高良さんは
毎日のように首里城高台に登り、那覇の街を眺めていたという。街と いっても
ポ ツポツ集落が出来つつある程度、全体として焼け野が原である。眺めながら
将来の那覇の中心はどこになるのだろうかと考えていた。そこで牧志に目を つ
けた。
旧那覇市の発展は遅れそうだし、首里、真和志、那覇小禄の四地域から見て真ん
中あたりにあるからだ。
そのころの牧志一帯は、クロンボー部隊、と呼ばれる米軍の物資集積所になって
いた。
物資集積所の敷地の一部を使わせてもらいアーニーパイル国際劇場を作ったのは
1948年だった。劇場を作りたいというと、米軍は快く承諾、資材ま で提供
し てくれたのである。劇場の建て方にも高良さんの先見の明が生かされてい
る。当時としては正面がコンクリート造りで本格的な建物。それを高良さんは
家一軒分 後ろにずらして建てたのである。
当時の国際通り(国際通りの名称は劇場にちなんでつけられた)は現在の車道部
分ぐらいしかなかったが、高良さんは「きっと将来、ここは繁華街にな る。道
路をもっと広げなければならない」というポリシーを持っていたのである。
劇場は大繁盛で、高良さんは国際劇場の隣に平和館を併設、中央劇場や那覇劇場
も買収して高良さんは"娯楽王"となった。映画館からの収益で友人ら と沖縄無
尽、後に第一相互銀行を設立している。
1951年には那覇市天久に「ホテル琉球」を造った。観光客はいない当時のこ
と、来沖した米軍将校らのが落着き先が決まるまでの宿泊施設として活 用され
た。敷地三千坪に二階建て洋館で屋根の赤瓦が美しかった。ホテルはその後、東
急に売却され、建て替えられて那覇東急ホテルとして現在に至ってい る。
高良さんの事業意欲はとどまるところを知らない。55年には中城公園の整備管
理を引き受けた。同じころに「伊計島ヘルスセンター」を設立してい る。伊計
島 に駐留していた米通信隊が撤退、施設を引き取った地元の要請で乗り出した
もの。隣の平安座島に石油基地ができたりして、結局手放すことになるのだ
が、リ ゾート開発に乗り出したアイデアはさすが。海洋博後に到来したリゾー
ト開発のブームを見て高良さんの胸中が察せられる。
那覇市議会でも高良さんの先見の明はいかんなく発揮された。都市モノレール建
設推進協議会設立準備委員会を結成、県などに要請行動したのは二十年 ほど前
の 77年である。しかも構想が大きい。第一期を那覇市内、二期で沖縄市ま
で、第三期では海洋博会場まで伸ばすというものだった。モノレール建設が軌
道に乗り つつあるということを見届けることができたことが高良さんへの手
向けとなろう。海洋博を前にして沖縄本島で最も細い石川-仲泊間3キロに運河
を 渡そうと の奇抜なアイデアで話題をさらったこともある。
人間的には気さくで大の泡盛党。"桜坂の主"と言われた。新聞記者を経験してい
るだけに、顔見知りの記者を桜坂に呼んでは一献傾けるのが好きだっ た。話術
も巧み、あの世でも豊富なアイデアを連発し、さぞにぎやかに違いない。
(琉球新報 1994年4月20日号 掲載記事より抜粋)
1994年に他界致しました。